第3回は、エミール・マールの著作「12世紀フランスの宗教芸術―中世の図像の起源に関する研究」の第2章後半から第5章をガイドに、ロマネスクに対するビザンティン芸術の影響及びロマネスクが創造した図像について、MORAのデータ・ベースから見ていくことにしましょう。
1.ビザンティン型の図像とロマネスクへの影響
既にみてきたとおり、マールは、ロマネスクの図像のほとんどはロマネスクの作家たちが創造したものではなく、オリエントを起源とするさまざまな写本にある図像(マールはこれをヘレニズム型とシリア型に分類しました)の借用から生まれたものであることを明らかにしましたが、ロマネスクに先行するビザンティンにおいても同様のことが行われており、ビザンティン型というべき図像が誕生していること、そしてロマネスクはオリエント起源の図像に加えこれらビザンティン型の図像をも手本として用いていることも明らかにしました。
オリエント起源の図像をもとにビザンティンが生み出したビザンティン型の図像として、マールは次のものをあげ、ロマネスクに対する影響について言及しています。
- 弟子の足を洗う/ キリストが身をかがめてペトロの足を洗うというシリア型に、長いベンチに腰掛け、履物を脱ぎ順番を待っている使徒たちを加えている(ロマネスクではトゥールーズにあるオーギュスタン美術館所蔵のラ・ドラード修道院回廊の柱頭等に見られる)。
- 昇天/ 天空には4人の天使に支えられた光背の中でキリストが玉座に坐し、地上では聖母を中心に使徒たちが立ち並んで昇天するキリストを見上げている、というモンツァの香油瓶に見られる構図がビザンティンでは主流となる(ロマネスクでは、2人の天使に支えられた光背の中にキリストが立ち姿で現れ、その下で聖母と使徒たちに加え2人の天使が使徒たちに語りかけているとの構図が主流となる。玉座に坐ったキリストというビザンティンの構図は、アンズィ・ル・デュックのタンパン彫刻以外には殆ど見あたらず、ビザンティンの構図はロマネスクには承継されなかったといえる)。
- キリストの変容/ オリエントにおけるこの図像の起源は古いが、ビザンティンにおいて、光背の中に立ち浮揚しているキリスト、その左右にモーゼとエリアが頭を下げて立ち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の使徒がひれ伏しているとの構図が生まれる(シャルトルのステンドグラス等に見られる。ラ・シャリテ・シュル・ロアールのタンパン彫刻もこれに似ているが、3人の使徒が立ち姿で表現されており、マールはビザンティン以前の小アジアを起源とする構図を承継したものであるとしている)。
- イエスの就縛/ オリエントにおいてはこの場面は単独でとりあげられていたが、ビザンティンにおいて、「ユダの接吻」「イエスの就縛」「ペトロとマルクスの争い」の一連のドラマを一つの場面にまとめた構図が生まれる(ロマネスクではトゥールーズのラ・ドラード修道院回廊の柱頭、サン・ジルの浮彫等に見られる)。
- 十字架降下/ オリエントの初期の図像では、福音書の記載どおりに十字架からイエスを降ろすアリマタヤのヨセフとニコデモだけが登場していたが、ビザンティンにおいて、マリアとヨハネが加わり、悲壮感ただよう構図が生まれる(ロマネスクではヴィックの壁画、ラ・ドラード修道院回廊の柱頭、サント・ドミンゴ・デ・シロスの回廊浮彫等に見られる)。
2.ロマネスクにおける図像学的創造
ロマネスクの作家たちは、オリエント起源のさまざまな写本挿絵やビザンティン型の写本挿絵を手本として用いましたが、単に模倣するにはとどまりませんでした。マールは、ロマネスク初期の作品であるトゥールーズのラ・ドラード修道院やサン・テティエンヌ大聖堂の柱頭彫刻(いずれもオーギュスタン美術館に所蔵されています)に、既にオリエント起源の古い構図を突き崩すロマネスクの創造のエネルギーを見ることができるとしています(モアサック、ヴェズレー、オータン、コンク等の扉口に出現した壮大な構図は、まさにロマネスクの創造のエネルギーの爆発を感じさせるものです)。それに加えて、ロマネスクにおいて行われた創造の例として次のものをあげています。
- 受胎告知/ オリエントにおいては、聖母は建物を背景に紡ぎ棒を手にし、天使は伝令使の棒を持つ等、こと細かに表現されていたが、ロマネスクにおいてはこれらの細部は消え、主題を端的に表す構図となる(シャルトルの西正面扉口等)。
- 御訪問/ オリエントにおいては、マリアとエリザベスが向かい合って立つヘレニズム型とマリアとエリザベスが互いに抱き合うシリア型の2つがあったが、ロマネスクにおいて、2人が互いに手を取り合うか手を差し出し合うという中間的といってよい第3の構図が生まれた(ラ・シャリテ・シュル・ロアールのまぐさ石等)。
- キリスト降誕/ オリエントにおいては、降誕図は全ての人物(飼葉桶の中に横たわる幼子、産婆たちに洗われる幼子、藁布団に横たわる聖母、坐っているヨセフ、羊飼いたち、マギたち等)が登場する込み入った構図で表現されていたが、ロマネスクにおいては極めて簡潔な構図に変わる(アルルのサン・トロフィームの回廊柱頭等。ヴェズレーの右扉口のタンパンは、多数の人物が登場するオリエント型の構図をとどめている珍しい例である)。
シャルトルのステンドグラスにおいては、登場人物は寝台に横たわる聖母、飼葉桶で2匹の動物に見守られて眠る幼子、顔に手を当てて坐るヨセフの3人だけの構図に純化される。マールはこの純化された構図がサン・ドニの修道院長シュジェールの功績によるものとしている。
- 洗礼/ オリエントにおいては、キリストの洗礼に立会う天使たちは礼拝の形として両手をヴェールで覆い隠していたが、ロマネスクの作家たちにはこの形の理由が理解できなかったようで、天使たちはキリストが脱いだテュニックを持つ姿に変わる。この構図もシャルトルのステンドグラスに初めて現れる。
- 最後の晩餐/ オリエントにおける最後の晩餐は、通常、半円形の食卓の両端にキリストとユダが使徒たちを挟んで横たわるという形で表されたが、ロマネスクにおいては、長方形の食卓の向こう側にキリストを中心として使徒たちが坐り、ユダ1人が食卓の反対側でキリストと向かい合っているとの構図(ヴィックの壁画、シャルトルのステンドグラス等)、または、ユダも食卓の向こう側でキリストの横に坐るとの構図(サン・ジルの中央扉口、シャンパーニュのまぐさ石等。マールはこの図像を創造したのはプロヴァンスの作家であり、それが北フランスまで伝わっているとしている)が生まれる。
ロマネスクの作家たちは、オリエントやビザンティンを起源とする写本挿絵に着想の源を求めたとはいえ、単なる模倣を繰り返したり、ビザンティンのイコンにおけるように創造を避け形の忠実な再現を目的とするのではなく、かなり自由な発想で、修正、変形を加え、新たな図像を創造していったことがわかります。マールは、キリストの生涯等聖なる題材を扱う場合は伝統的な構図を尊重し、聖なる性格を持たない対象については自由に新しい発想で修正、変形を加えていったであろうと推定しています。
3.典礼劇からの影響
10世紀末頃から、教会の典礼の中で復活祭を初めとして典礼劇が演じられるようになりましたが、ロマネスクの作家たちはこれらの典礼劇からも着想を得たとマールはいいます。
- 誕生/ 降誕祭の典礼劇では「羊飼へのお告げ」「マギの礼拝」「エジプトへの逃避」等が題材となるが、マールは、12世紀後半にマギの礼拝の構図に大きな変化が見られ、その理由を典礼劇の影響によるものであるとしている。
従前、聖母と膝の上に坐る幼子に向かって同じ姿で進んでいたマギたちが、それぞれ演劇的な身振りを示すようになる(先頭のマギは聖母の前に跪き、二番目のマギは星を指差しながら次のマギを振り返り、三番目のマギは片手を挙げて賛嘆の気持ちを表わす。アルルのサン・トロフィームの扉口と回廊柱頭、サン・ジルの左扉口等)。
また、降誕祭ではキリストが神の子であることを旧約聖書の預言者たちに証言させる預言者劇も演じられたが、これを題材とした作品も作られる(ポアティエのノートルダム・ラ・グランドの正面には、モーゼ、エレミア、ダニエル等の預言者が証言している姿が刻まれている)。
- 復活/ 12世紀に至るまではキリストが埋葬された場所は古代風の墳墓として表わされていたが、12世紀初め頃から埋葬場所が石棺に変わってくる。これは十字架が石棺の形をした聖遺物箱に納められるようになり、復活祭の劇でもキリストが埋葬された場所が石棺として表現されたことに対応するものである。
また、聖女が石棺の前で屍衣を手に取って見せたり、天使が石棺の蓋を持ち上げ中が空になっていることを示したり(サン・ジルの右扉口)、ついには石棺の中に立ち上がるキリストが表現されるまでに至ったこと(ラ・ドラード修道院回廊の柱頭)、聖女たちが墓を訪れる前に香料商人から香料を買う場面が加えられたこと(サン・ジルの右扉口。アルルのサン・トロフィームの回廊浮彫―下段に坐る2人が香料商人である)、「エマオへの巡礼」におけるキリストと巡礼者の衣装が、杖、パン袋、縁なし帽とサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者のように表現されていること(シロスの回廊浮彫、ヴェズレーの左扉口、ラ・ドラード修道院回廊の柱頭)等は、復活祭に演じられた典礼劇(「香料の購入」「聖女たちの墓詣」「エマオの巡礼」「不信のトマ」が題材となっている)での表現抜きには説明できないものである。
- 神殿への奉献/ オリエントにおいては、聖母が幼子をシメオンに差し出し、またはシメオンが幼子を受け取って抱いており、聖母の後ろにヨセフが、シメオンの後ろにアンナが控えるとの構図が通常であるが、シャルトルのステンドグラスにおいて、火のともった大蝋燭を持つ2人の侍女が聖母の後ろに加えられる。この新しい構図は蝋燭祝別行列を取り入れたものである。
- 洗礼/ 12世紀に至るまでは川もしくは水槽の中に全身を浸す浸水による洗礼しか見られなかったが、12世紀初め頃から頭に水を注ぐ注水による洗礼が現れるようになる。これは洗礼の方式が変わってきたことによるものである。
- 賢い乙女と愚かな乙女/ フランス南西部のリムーザン、ポアトゥー、サントンジュ地方に「賢い乙女と愚かな乙女」の図像が広まったのは12世紀頃からで、賢い乙女が持っていた松明がランプに変わり、愚かな乙女は油のないランプを逆さに持つという構図で表現されるようになった。マールは、当時フランス南西部で演じられた賢い乙女と愚かな乙女の典礼劇からこの構図が生まれたとしている(最初期の作品はサン・テティエンヌ回廊の柱頭彫刻に見られる)。
4.サン・ドニでのゴシックの誕生
シュジェールがサン・ドニの修道院長の地位にあったのは1122年から死去する1151年にかけてですが、マールは、1135年頃、シュジェールが南フランスの作家たち(トゥールーズからモアサック、モアサックからボーリューへと渡り歩いた作家たち)をサン・ドニに呼び寄せ、作業に取り掛からせたとしています。
サン・ドニの正面扉口は、1771年に著しく破壊されただけでなく、粗雑な修復を受けたことにより、芸術的価値は失われたとされていますが、構図については最初の状態が保存されていると考えられています。
サン・ドニ中央扉口の「最後の審判」のタンパンがボーリューを承継したものであることは、キリストが両腕を水平に広げていること(「審判のキリストは十字架に架けられたと同様の姿で再臨する」との中世の教義に基づくものです)、十字架の形状が同様であること(先端が広がり、交差部に円形が見られます)、同様の構成要素からなっていること(キリストの両側に控える使徒たち、ラッパを吹く天使、受難の刑具を手にして空中を舞う天使、墓から蘇る死者たち)等から明らかで、サン・ドニはボーリューの構図を整理し、より明確なものとして承継したということができます(なお、ボーリューではアーキボルトに装飾が見られませんが、サン・ドニでは「黙示録の長老たち」「天使」「悪魔」等の彫刻がなされており、南フランスのカオールやアングレームでなされた試みが取り入れられたものと考えられます)。
ボーリューのタンパンで誕生した「最後の審判」の図像は、シュジェールによりサン・ドニ正面中央扉口のタンパンで取り上げられ、以後、ゴシックの主要な主題として北フランスに伝播していくことになります(サン・ドニから後はキリストは両腕を上げ自分の傷口を見せる姿で表されるようになり、それがゴシックの定型となります)。
シュジェールのサン・ドニでの試みは、「最後の審判」を明確な図像としてタンパンに掲げたことに加え、扉口側壁に旧約聖書の登場人物たちの人像円柱を並べたこと、「賢い乙女と愚かな乙女」の主題を最後の審判と意図的に関連付けて用いたこと等により、ゴシックの扉口の定型を生み出すものとなりました。そしてそれにとどまらず、サン・ドニ周歩廊でのリブ・ヴォールト使用の試みは、ロマネスクの教会堂を支えるに不可欠だった重厚な壁体を取り除き、教会堂の高さの構築と堂内への光の流入を可能にしました。その結果、壁体から独立した彫刻が飾られ、切り開かれた空間にステンドグラスが輝く、ゴシックの世界が誕生することになります。
マールは、中世芸術の典型と考えられていたゴシックの図像の起源を探る目的で、当時、粗野で幼稚で芸術の埒外としか考えられていなかった12世紀の荒野に足を踏み入れました。その結果、彼が発見したのは、ゴシックの図像のほとんど全てが既に12世紀に出現していたこと、そればかりでなく、これらの図像を含め多数の図像が12世紀に開花していたという事実でした。13世紀北フランスを中心に建てられた壮大な大聖堂を飾る図像のほとんどが、12世紀南フランスの教会堂で発見することができたということは大きな驚きでした(12世紀半ばのサン・ドニもしくはシャルトルの西正面の完成をもってゴシックの誕生と見るのが通常ですが、ここではマールは12世紀をロマネスク、13世紀をゴシックに象徴させています)。
そして、マールは、オリエント、ビザンティンからロマネスク、ロマネスクからゴシックへの図像の系譜を探り、「黙示録のキリスト」から「最後の審判」「聖母の戴冠」への推移を跡付けます。
こうして、12世紀のロマネスクが西欧中世の宗教芸術の一時代を画すものであったことが正当に評価されることになりましたが、図像学による研究は、図像の誕生とその承継、展開に目が行き、ゴシックとは異なるロマネスクの特異性を浮き彫りにするには必ずしも十分であったとはいえませんでした。
その課題は、ロマネスク彫刻の自律性を捉えようとするアンリ・フォションによって進められることになります。